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セナの悲劇当日、ザーゴがダービーで感情を爆発させた。柏で見せた二面性。そして鹿島の監督へ

鹿島のザーゴ新監督。写真:徳原隆元/(C)Takamoto TOKUHARA

1984年5月1日、異様な雰囲気に包まれたサンパウロ対パルメイラス戦で。

 鹿島アントラーズの監督に就任したアントニオ・カルロス・ザーゴの選手時代で、印象に残っている試合がある。

 ブラジル人F1ドライバーのアイルトン・セナがイモラ・サーキットで散った1994年5月1日、ブラジル・サンパウロ州のモルンビー・スタジアムで行われたサンパウロFC対SEパルメイラスの一戦だ。

 このサンパウロ州を本拠にするダービーマッチで、ザーゴはパルメイラスの選手としてピッチに立っていた。そしてハーフタイムに電光掲示板で英雄の死が告げられた。

 するとぶつけようのない悲しみと、クラシコの危ういまでの熱狂とが相まって、満員のスタジアムは異様な雰囲気に包まれていった。

 後半、2-1とリードしたサンパウロは試合を圧倒的に支配し、半ばからはライバルチームを挑発するようにボール回し始めた。パスがつながるたび、サンパウリーノ(サンパウロサポーター)からは「オーレ、オーレ」の大合唱が起こり、ボランチのバウベルはラボーナでパスを出す余裕まで見せつけた。

 クラシコで屈辱的な展開を作り出されたパルメイラスの選手たちは、次第に苛立ちの色を濃くしていく。ピッチの至るところで小競り合いが起こり、選手同士が詰め寄る場面が何度も見られた。

 そうしたなかで最も激しく感情を露わにしていたのがザーゴだった。その姿は今でも強く心に残っている。

 するとパルメイラスは執念を見せる。試合残り15分から2ゴールを叩き込み、逆転勝利を収めてみせたのだ。

 時は経過して1996年、登録名アントニオとして柏レイソルでプレーした時代。彼のインタビュー撮影に行った時、ブラジルでの印象とは大きく異なり、質問に対して実に物静かな受け答えをしていた。

 ふたつの対照的なエピソードは、どちらもザーゴの性格を形成する一面であり、内包している感情であるのだろう。ただ、彼を追うなかで感じるのは、ザーゴはサッカー人として他者と比較されて劣っていると感じること、見せつけられることを極度に嫌うことだ。これはブラジル人の典型でもある。

 鈴木満強化部長はザーゴの就任の理由をこう説明している。

「(新監督)候補は4人いた」

【次ページ】鈴木満強化部長が語ったザーゴ招へいの理由

Posted by 徳原 隆元

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