【日本代表】家長昭博はどうだろう?2005年、西野監督の決断がプロ人生の転機に

川崎で2シーズン目を迎える家長昭博。写真:徳原隆元/(C)Takamoto TOKUHARA

G大阪でワールドユースの帰国直後からメンバー入りし、リーグ優勝へ駆け抜ける。

 日本代表の西野朗監督がG大阪を率いていたとき、ある「思い切った一手」が印象に残っている。2005年6月、20歳以下の世界一を決めるワールドユース・オランダ大会(現U-20ワールドカップ)で、U-20日本代表の選手たちが帰国した直後、西野監督はすぐさま19歳の家長昭博をメンバー入りさせた。その後、二川孝広らと切磋琢磨させながらコンスタントに起用。そしてG大阪は悲願のリーグ初優勝を成し遂げている。

 ワールドユースでベスト16入りを果たしたU-20日本代表だが、1勝も挙げられずにオランダ、オーストラリア、モロッコといった列強の同世代との差を見せつけられた。だが、そのなかでもチャレンジし続けて力を発揮していたのが、大熊清監督の率いる3-5-2のチームの左ウイングバックを担っていた家長だった。

 帰国したばかりの選手のほとんどが、所属先ではベンチ外からのリスタートを強いられた。無理もない。多くはプロ1、2年目の実績のない若手だ。約2か月チームから離れていただけに、待っていたのは一からのポジション争いだった。

 しかし、G大阪を率いて4年目を迎える西野監督は違った。

 家長が世界で養った感覚を失わずチームに落とし込むように、ぶ厚い選手層を誇る中にメンバー入りさせた。復帰2試合目の広島戦(〇2-0)では先発フル出場。その後は切り札として、コンスタントに出場機会を掴んでいった。シーズン終盤にはレギュラーの座を掴み、自身はもちろん、チームにとっても初となるリーグ制覇に貢献した。

 この年、家長はワールドユースをはじめとした世代別日本代表の活動による離脱期間がありながら、1481分の出場時間を記録している。プロとしての大きな経験を得て、その後の様々な戦いに向かっていくベースを築いた。

 大分トリニータでの大ケガ、韓国への移籍、大宮アルディージャでの復活劇、川崎フロンターレでのリーグ制覇――そして現在に至る。

「どんなに重い負けを喫しても、立ち上がることができる。粘り強くやれますから」

 川崎への移籍1年目にリーグ優勝を果たした昨季、家長はそう語っていた。ただ巧いだけではない。心身ともにタフさが増した。

 西野監督がG大阪で見ていたときより、一回り、二回りは逞しさは増したはずだ。加えて最近の日本代表でコンスタントに招集されてきた小林悠との相性も抜群。永遠のライバルであり親友でもある本田圭佑とのタッグ復活もあるか。

 日本代表のメンバー発表の席で、西野新監督が表情を崩さずクールに、家長の名前を呼ぶシーンがイメージできる。選んで当然だ、といわんばかりに。

文:塚越始
text by Hajime TSUKAKOSHI

Ads

Ads