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リネカーとJリーグ30周年「始まりは地震と0-5。事態はさらに悪化した」。三笘、岡崎べた褒め、今も大切な日本のファン

1993年、名古屋時代のリネカー氏。(Photo by Stevie Morton/Allsport/Getty Images/Hulton Archive)

イングランド代表の得点数2位、大物ストライカーとして名古屋に加入。1年目は「1ゴール」。

 Jリーグ発足の1993年に名古屋グランパスでプレーした元イングランド代表FWゲイリー・リネカー氏(Gary Lineker)がこのほど、解説員を務めるBBC(英国放送協会)のインタビューに応じて、当時の状況やエピソードなど、ユーモアを交えて語っている。ある意味、ジーコ以上に期待されたストライカーは、初年度7試合・1得点、2年目も11試合・3得点と振るわず同年で引退した。ただ、今なお日本を見守り、英国でも発信してくれている、大切なファンの一人となっている。

 名古屋ではたくさんの思い出と出会いがあり、今なお日本とつながりを持つ。しかもイングランドでは、レスター・シティが快進撃を続けた際、惚れ込んだ岡崎慎司のユニフォームを着て応援。昨年のカタール・ワールドカップ(W杯)直前にはBBCのTV放送で、「MITOMAさんは、素晴らしい!」と、ブライトン・アンド・ホーヴ・アルビオンFCでプレーする三笘を日本語(と英語で)大々的に紹介し、ブレイクを“的中”させた。

 リネカー氏は今回のインタビューの中で、1993年の開幕戦当日、「朝にホテル全体が揺れる地震があり、そのあと(鹿島アントラーズに)0-5で敗れました。夢見ていたものとはまるで違うスタートを切りました」と言い、「しかしそこからも思うように事態は良好にはなりませんでした」と、ケガの影響もあり94年まで在籍し、現役引退を決断した。

 当時イングランド代表通算2位の48得点という記録を引っ提げて、鳴り物入りで名古屋の一員になった。当時の加入までの経緯にも触れていて、ちょうど実業団からプロ化されるなか、練習中の「ナイスキーパー! ナイスシュート!」といった“和製・英語”に、自分も同じように応えて馴染んでいったという思い出にも触れる。

 また、息子のジョージくんは急性骨髄性白血病を患っていたが、日本で治療を受けて健康を取り戻していった。その姿に自身も勇気づけられたが……ピッチではなかなか思うようにいかなかった。

 リネカー氏は1993年のJリーグ開幕当時の状況を次のように振り返る。

「最初のシーズンは10チームと小規模で、マーケティングやファンとの関わり方のモデルは、野球などアメリカの既存スポーツをベースにしていました。フットボールを流行らせるため、できる限りエンターテインメント性を高める必要があると考えたからです。

 フェイスペイント、ビッグフラッグ、花火、大音量の音楽、たくさんのグッズやチームのマスコットなど、楽しさに重点を置いたのです。

 騒々しくカラフルで、これまで見たことのない光景でした。ファンの振る舞いも実に新鮮でした。みんな常にエキサイトし、敬意を払い、前向きでした。

 イングランドのアウェーグラウンドで選手が受けるような罵声はありませんでした。むしろ、イングランド代表の国際大会に行くような雰囲気で、観客は若い人が中心で、女性ファンも多く、それを見るのはとても楽しいことでした」

 そのあたりは30年経った今、クラブ(主催者)が装置など用意して試合を盛り上げる「アメリカ式」が再び増えつつある現状と重ね合わせて見ると興味深いところだ。

 リネカー氏はたくさんのテレビCMにも出演し、それは楽しい経験で「私はリーグでプレーするためだけでなく、リーグを宣伝するためにそこへ行ったのです。起こっていた現象を考えるとそれは当然のことでした」。

 右足親指の負傷が致命傷となり、パフォーマンスはなかなか上がらなかった。そんななかで誕生したミッチェルくんの愛称「ハリーちゃん」は、「名古屋で住んでいたアパートの仲の良かった隣人がつけてくれたんだ」という。

 そのミッチェルくんが誕生した日、名古屋の病院に駆け込んだリネカー氏は、看護師から「すとっぷ、すとっぷ」とすごい勢いで呼び止められた。それは「スリッパ、スリッパを履いて!」ということだったと懐かしく微笑む。

 どんな状況下でも、基本は常に“前向き”だったストライカー魂が伝わってくる。リネカー氏は今も日本を、イングランドでプレーする日本人サッカー選手を大切に思い、エールを送ってくれている。

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