元日本代表監督の下村幸男氏が94歳で逝去。川淵三郎氏「大好きな先輩を失った悲しみは計り知れません」
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東洋工業をJSL4連覇に導く。田嶋幸三氏、サンフレッチェ広島の久保雅義社長も追悼。
日本サッカー協会(JFA)は8月17日、元日本代表監督の下村幸男氏が13日に広島県内で老衰のため死去したと発表した。94歳だった。葬儀はすでに家族葬で執り行われた。
下村氏は1950年から東洋工業(のちのマツダ、現在のサンフレッチェ広島)でプレー。ゴールキーパーとして日本代表にも選出され、1956年のメルボルン・オリンピック、第3回アジア競技大会などに出場した。
指導者としても日本サッカー界に大きな足跡を残した。日本サッカーリーグ(JSL)が創設された1965年に東洋工業の監督に就任し、初年度から4連覇を達成。1979年には日本代表監督を務めた。
サンフレッチェ広島の創設後はクラブのアドバイザー、参与を歴任し、クラブの基盤構築や地域スポーツ文化の発展にも尽力した。
JFAの田嶋幸三名誉会長、川淵三郎相談役、サンフレッチェ広島の久保雅義代表取締役社長が、下村氏の訃報を受けてコメントを発表した。
3人のコメント全文は次の通り。
■田嶋幸三 JFA名誉会長
「下村さんのご逝去の報に接し、謹んでお悔やみ申し上げます。
私が日本代表に初めて選出されたのは大学4年生の時でした。教育実習中だった私を検見川の合宿所で遅くなるまで待っていてくださり、熱心に指導してくださいました。下村さんとの出会いがなければ私は教員になり、今とは全く違った人生を歩んでいたことでしょう。
後に日本サッカー協会(JFA)の技術委員として指導者養成に携わりましたが、下村さんという素晴らしい指導者との出会いがあったからこそ、指導者養成においても選手育成においても「人を育てる」ことを基本に取り組むことができました。下村さんの教えと、多くの先輩方が築いてこられた基盤があったからこそ、今日の日本サッカーの発展があります。
ご生前のご厚情に深く感謝申し上げますとともに、安らかにご永眠されますよう心よりお祈りいたします」
■川淵三郎 JFA相談役
「天寿を全うされたとはいえ、大好きな先輩を失った悲しみは計り知れません。謹んで哀悼の意を表します。
下村さんは、日本サッカーリーグ(JSL)が創設された1965年に東洋工業の監督に就任され、JSL初年度から4連覇という偉業を成し遂げられました。しかし、そのような輝かしい実績を残されながらも、決して驕ることなく、威張ることもなく、常に謙虚で誠実な方でした。
1977年に下村さんがJSLの総務主事に就任された際、「実行委員になってほしい」と声をかけていただきました。尊敬する先輩からのお願いとあればお断りするわけにはいかないと引き受けました。1979年には、今度は僕が強化委員会として下村さんに代表監督をお願いし、引き受けていただきました。初陣となった第7回日韓定期戦で勝利し、続くフィオレンティナ(イタリア)戦では引き分けるなど、短い期間ながら日本代表監督としての手腕を発揮されました。
素晴らしい指導者でした。日本サッカーへの多大なる貢献に心から感謝の意を表します。安らかにお眠りください」
■久保雅義 サンフレッチェ広島代表取締役社長
「サンフレッチェ広島の前身である東洋工業蹴球部にて選手・監督を務められ、当クラブのアドバイザー・参与を歴任された下村幸男さんが、2026年8月13日にご逝去されました(享年94歳)。
下村さんは広島市のご出身。現役時代はゴールキーパーとして1956年メルボルン・オリンピック出場など日本代表でご活躍された後、東洋工業蹴球部監督として日本サッカーリーグ(JSL)において前人未到の4連覇を達成し、広島サッカー界の黄金期を築かれました。
サンフレッチェ広島創設後は、アドバイザーや参与としてクラブの基盤構築および地域スポーツ文化の発展に多大なるご尽力をいただきました。
ここに生前の偉大な功績を讃え、深甚なる感謝を表しますとともに、謹んでお悔やみ申し上げ、心よりご冥福をお祈りいたします。
株式会社サンフレッチェ広島
代表取締役社長 久保 雅義」
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