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遠藤保仁の現役引退で、JFA新旧会長コメント。元日本代表&G大阪の宮本恒靖専務理事「どんな監督にも合わせられるクレバーな選手。たくさん助けてもらいました」

G大阪の遠藤保仁。写真:上岸卓史/(C)Takashi UEGISHI

田嶋会長「プレーを初めて見たのは、彼が鹿児島実業高校在学中の時…」

 日本サッカー協会(JFA)は1月9日、2023シーズンまでジュビロ磐田でプレーした遠藤保仁の引退発表を受けて、日本サッカー協会の次期会長に事実上内定した宮本恒靖専務理事、田嶋幸三現・会長がコメントを発表した。

宮本恒靖 専務理事
「遠藤保仁選手と初めてプレーしたのは、2000年のシドニーオリンピックを目指すU-22日本代表に選ばれた時で、彼は19歳でした。その2年後に彼がガンバ大阪に移籍してきて、再び一緒にプレーすることになりました。僕がセンターバック、彼はボランチという関係性で、いつも安心してボールを預けることができました。

 きれいなミドルシュートからのゴールも見てきました。セットプレーの際に放たれる彼のキックは誰よりもやさしく合わせやすく、そのボールの軌道は今も目に焼き付いています。

 どんな監督にも合わせられるクレバーな選手で、何がベストかを常に考え、監督が 求めることを実行できる選手でした。戦術眼の高さもさることながら、ケガをしない 身体の強さとコンディショニングに対する高い意識が、J1リーグ通算672試合、国際Aマッチ通算152試合出場という歴代最多出場を達成した要因だと思います。

 監督、選手として一緒に活動できたこともいい思い出です。たくさん、助けてもら いました。指導者としての彼の活躍を楽しみにしています」

田嶋幸三 会長
「25年間にわたるJリーグでのプレー、お疲れさまでした。そして、長年にわたり、日本代表チームをけん引してくれたことに改めて敬意と感謝を表します。遠藤選手のプレーを初めて見たのは、彼が鹿児島実業高校在学中の時。当時は4歳上の次兄・彰弘選手が注目されていた時で、”その弟”というくらいの印象でした。

 1998年以降、U-20日本代表、U-23日本代表に選ばれるなど目覚ましい成長をみせていたが、彼が日本代表として頭角を現したのは2001年にガンバ大阪に移籍してからだと思います。冷静な判断と高い技術を有し、代表に選ばれて当然という成長ぶりで、選ばれた時は本当に嬉しかった。

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 2008年に病気で1カ月以上の離脱を余儀なくされた時は、心配で何度も大阪に足を運びました。現在は、JFA公認指導者ライセンスを受講していると聞いています。これからもその経験と実績を日本サッカーの発展に生かしてほしい。応援しています」

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