内田篤人が明かす日本代表派遣の舞台裏。怒るマガト「二度と使わない」「新しい選手を獲得する」
レアル・マドリーのクリスチアーノ・ロナウドと対峙するシャルケ時代の内田篤人。写真:徳原隆元/(C)Takamoto TOKUHARA
2011年のアジアカップ出場を巡るエピソード。
鹿島アントラーズとシャルケ04などで活躍した元日本代表の内田篤人が4月8日、DAZNのコンテンツ「内田篤人のFOOTBALL TIME」で中村憲剛をゲストに招き、最近のサッカーシーンの出来事、そしてスペインリーグのエル・クラシコに向けて語り合った。
そのなかで日本代表の3月シリーズの2試合でフル出場したDF冨安健洋が、帰還したボローニャFCのインテル・ミラノ戦(●0-1)の前半34分に負傷交代した話題が取り上げられた。このケガを受けて、ボローニャのシニシャ・ミハイロヴィチ監督が、特に14-0で勝ったモンゴル代表戦について「出場させる必要が本当にあったのか? 代償を払うのはいつも私たち(所属チームの)監督です」と激怒するに至った。
そこで内田はドイツ・ブンデスリーガでプレーしていたシャルケ時代のエピソードを披露。2011年1月のカタール・アジアカップに向けて招集オファーが届き、当時の日本サッカー協会の原博実技術委員長がクラブとの仲介を担ったという。すると内田がケガ明けだったこともあり、シャルケのフェリックス・マガト監督は大会への派遣に猛反対。「アジアカップに連れて行くのならば、アツトは二度と使わない。新しいレギュラーの右サイドバックを獲得する」と“条件”を突き付けてきたという。
しかし、それでも内田はアジアカップで戦うことを選択。ザックジャパンの一員として、優勝を成し遂げている。
そのあとシャルケに戻った内田はというと――。「キープ」されて、その年(2010-11シーズン)にはUEFA欧州チャンピオンズリーグでのベスト4進出を果たす。そして、その後むしろより確固たる地位を築いていくことになる。
内田は「すれすれ綱渡りです。そういうこともありますから。でも、そんなこと言うかなと思いましたよ」と振り返っている。それを受けて、中村は「それだけ篤人が監督にとって重要な選手だったっていうことだよ」と頷いている。
いくつかの分岐点があり、そこで内田は胸を張って堂々と選択をしてきた。鬼軍曹と言われたマガト相手に……しかも、ちょうど一番怖がられていた時代に。何より「結果」で一つひとつ回答を示している。内田の強心臓ぶりを物語るような話だ。
このほか、内田は中村と「影響を受けた監督」「鹿島対川崎」「ボールを止めることの真意(実演)」「多摩川クラシコ」など、様々なテーマについて語り合っている。
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[文:サカノワ編集グループ]