内田篤人は高校3年の夏、新潟と鹿島にプロ入りを絞る。アントラーズを選んだ決断の決め手は…
鹿島での内田篤人。写真;徳原隆元/(C)Takamoto TOKUHARA
『DAZN』の「内田篤人のFOOTBALL TIME」で、鹿島スカウトの椎本邦一氏と対談。
元日本代表のDF内田篤人は2006年、清水東高校から鹿島アントラーズに進み、リーグ3連覇などクラブの黄金期を築き、自身も日本代表としてワールドカップ(W杯)に出場。そしてドイツの名門シャルケ04ではUEFAチャンピオンズリーグ(CL)ベスト4進出を果たした。2018年には再び鹿島に戻り、ちょうど2年前の夏、現役引退を決断した。
内田がどのようにプロになったのか。このほどDAZNの「内田篤人のFOOTBALL TIME」で、内田が鹿島スカウトの椎本邦一氏と対談し、当時のことを振り返っている。
小笠原満男、本山雅志、中田浩二、そして内田ら数多くのタレントを獲得してきた椎本氏は、当時、鹿島の右サイドバックの主力だった日本代表の名良橋晃が少しケガが増えてきたため、2、3年後を見据えた高卒新人をリサーチ。高校2年時にU-17日本代表に選ばれた内田のプレーを見て、求められるスピードとアップダウン、そしてキック精度の高さに着目。「守備はクエスチョンだったが、馬鹿でなければなんとかなるだろう」と判断し、獲得に動いたそうだ。
内田は7チームから獲得の話を受けていて、高校3年の夏、鹿島とアルビレックス新潟の2チームに絞っていたと明かす。そうしたなか夏休みには鹿島の練習に参加。紅白戦でBチームに入ると、ちょうど出場停止だった小笠原が一緒で、「高校生相手にもキツいパスを出してきました」と一級品のプレーに触れる機会にもなり、むしろ大きな刺激を受けた。
そして8月24日にカシマスタジアムで行われた鹿島対新潟の一戦、鹿島が小笠原の2ゴールなど7-2で大勝を収める。内田はその直後、母親に「俺、鹿島に行く」と告げたそうだ。
内田は1年目から鹿島の右SBに起用され、U-20ワールドカップ、北京オリンピックと年代別の日本代表でも活躍。日本代表の主力にも定着していく。
ただ、その後、J1に定着していく新潟だが、もしも、その時に先制していただけに好ゲームを演じていれば……。内田が新潟のユニフォームを着ていた可能性もあったわけだ。
当時から時代は大きく変わった。その中でもプロを目指す選手に向けて椎本氏は、「自分が得意な、抜けているものを身に付けてもらいたいですし、あとは練習を楽しむこと。練習は嘘を付きません。(メンタル面では)みんな負けず嫌いだが、向上心を持ち続けられるか。プロになって満足せず、上には上がいますから」とアドバイスを送っていた。
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